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リブ・ストーリー Vol. 086   2001/8/22 (水)掲載

宮澤賢治 略歴
「銀河鉄道の夜」の作者、宮澤賢治。今日は略歴の紹介です。
賢治を知って、賢治の作品にふれてみる。
また一人、親友が増えたような、そんな親しみが出てきませんか。

1896年(明治29年)
   岩手県稗貫郡川口町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。家業は古着商。この年、三陸大津波、陸羽大地震、大洪水、大雨相次ぎ、死者多数。

1902年(明治35年) 6歳
  赤痢で2週間入院。この年も低温、冷雨、などにより東北地方大凶作。

1903年(明治36年) 7歳
  花巻川口尋常小学校に入学。この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。

1909年(明治42年) 13歳
  県立盛岡中学(現盛岡一高)入学。親元を離れて、寄宿舎自彊寮(じきょうりょう)に入る。このころ鉱物採取に熱中。

1911年(明治44年) 15歳
 このころより短歌創作を始める。

1913年(大正2年) 17歳
  新舎監排斥運動に加わったため、退寮を命じられて、清養院に下宿。この年、未曾有の大凶作。

1914年(大正3年) 18歳
  3月 盛岡中学卒業。
  4月〜5月に岩手病院入院。
  7月 進学希望をかなえられず、花巻に。
  9月 進学が許可され、受験勉強に入る。

1915年 (大正4年) 19歳
  盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席入学。

1917年 (大正5年) 21歳
  同人誌「アザリア」を4人で発刊。前年より短編を書き始める。

1918年 (大正7年) 22歳
  3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。
  5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。

1919年 (大正8年) 23歳
  4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで)

1921年 (大正10年) 25歳
  1月  花巻を出奔して、東京生活を始める。東京では、国柱会の奉仕活動と文信社(東大赤門前)の筆耕係として働く。この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。
  8月  妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。
 12月  稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。

1922年 (大正11年) 26歳
  童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。
  11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。

1923年 (大正12年) 27歳
  上京し、童話原稿を「婦人画報」と月間絵本「コドモノクニ」に持参するが、断られる。

1924年 (大正13年) 28歳
  イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版。

1926年 (昭和元年) 30歳
  花巻農学校依頼退職。羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。干ばつと水害が多い。

1927年 (昭和2年) 31歳
  このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。
  金融恐慌、銀行取付騒ぎ発生。

1928年 (昭和3年) 32歳
  発病し、病臥。 農作物は干ばつのためほとんど全滅。

1931年 (昭和6年) 35歳
  以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。

1932年 (昭和7年) 36歳
  病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。岩手県では、失業者・欠食児童増える。

1933年 (昭和8年) 37歳
  9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。
  9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。

午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。

以上の略歴は「群像 日本の作家12 宮沢賢治」(三木卓・他著 小学館 1990年)より抜粋

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